『 しもつけ随想 』カテゴリーの投稿一覧

下野新聞「しもつけ随想」(平成27年5月27日)

下野新聞 2015年(平成27年) 5月27日(水曜日)

「アンパンマン」に学ぶ

八木 仁


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「そうだうれしいんだ 生きるよろこび たとえ胸の傷がいたんでも~」。これはアニメ「アンパンマン」の主題歌「アンパンマンのマーチ」の出だしの部分である。

東日本大震災から3、4日後、あるラジオ番組に「アンパンマンのマーチを流してください」というリクエストがあった。放送されるやいなや避難所では、子どもたちがラジオに合わせて大合唱。それを聞いた大人たちは涙し感動した。それからラジオ局は、連日この歌を流したという。

震災後、事務所の電話が鳴らないので寂しいと感じ、ラジオをつけていた。私もこのアンパンマンのマーチを聞き、勇気づけられた。

20年前、子どもが2歳か3歳のころ、妻が「アンパンマン」の主題歌を聴くと涙が出そうだと言った。私にとって「アンパンマン」はテレビで垣間見る程度、曲は少し聞いたことがあるぐらいだった。歌調をよく読んでみると確かに奥が深い。その後しばらくの間、携帯電話の着信メロディーは「アンパンマンのマーチ」だった。

ところで「中小企業家同友会」では会員に「理念」「方針」「計画」の三つで構成されている「経営指針書」をつぐることを勧めている。特に事業を行う上で「理念」は経営者の社会に対する責任や、社員に対する経営の基本的なあり方を表したもので重要と考えている。その「理念」を考える過程で「自分は何のために経営をしているのか?」という問いにぶつかる。多くの経営者はそんなことを考える暇なく、いろいろな業務に追われてきているので、答えを出すのに少なからず苦労する。

「アンパンマンのマーチ」の最後は「みんなの夢まもるため」というフレーズで終わる。これを知った時、私にとって、先の問いの答えはこれだと思った。

「働く」ということには『生活』のためだけでなく、「かっこいい車に乗りたい」「庭のある家に住みたい」「子供を大学に通わせたい」、当社のある社員の夢などは「家に水族館を作りたい」といった夢も上乗せされている。よく「社長さんは社員やその家族の『生活』を支えているので大変ですね」と言われる。会社が傾いたとき『生活』のほうは完ぺきとはいえないだろうが、雇用保険などでかなり守られていると思う。しかし夢のほうは修正を余儀なくされるであろう。だからこそ大変で企業を維持させることは、アンパンマンのようにみんなの夢を守っていくことだと思った。

先日、合同面接会に入社2年目の女子社員を連れて行った。学生から「あなたはなぜ入社しようと思ったのか」と聞かれ「会社見学の時、こんな先輩方と共に働けたら楽しいだろうなと思ったから」と彼女は答えていた。それを聞いて、畑から予期せぬ「芽」が出たと思った。

「アンパンマンのマーチ」を意識するようになって20年。「みんなの夢を守る」ということは「芽」を成長させ、すばらしい「実」がなるように「会社」という「畑」を手入れしていくことだと考えるようになった。

県中小企業家同友会代表理事。
神奈川県出身。
民間企業に勤めた後、1985年に熱成形加工のシンデン(本社・小山市)に入社、97年から社長。「成長戦略の根本は人」とし全社員の年齢を構成表で管理。先輩から後輩への技術伝承に力を注ぐ。
小山高専地域連携協力会副会長。
法政大卒。茨城県古河市在住、55歳。

下野新聞「しもつけ随想」(平成27年4月22日)

下野新聞 2015年(平成27年) 4月22日(水曜日)

合同説明会はつらいよ

八木 仁

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現在各社で、、来年度の新卒者を対象にした合同企業説明会、いわゆる合説が開催されている。新卒採用を計画している企業が一堂に会し、学生たちが関心のある企業の話を聞くというものだ。

机を挟んで、自社の業務、内容を説明する担当者と熱心に話を聞く学生たち。そのような写真がこの時期になると、よく新聞に載る。

しかし現実は、企業の知名度等によって、学生が1人も座っていないというところもあるのだ。

私が社長に就任した直後、初めて参加した合説では、いすに座り、キョロキョロし、時々ウロウロすること以外やることがなかった。午後1時から5時までの開催で、終了間際にやっと1人という状況であった。

合説への申し込みが遅かったので、メインの会場には入れず、外の廊下の一番端に、ブースが割り当てられた。机の横は喫煙所。たばこを吸っていた学生とは一言二言話しはしたが、前の席には来てくれなかった。

途中何回も参加企業ガイドを見ながら、会場の学生と企業の様子を確認した。「どうしてうちには学生が来てくれないのか?」「おかしい!」「みじめだ!」と思った。

求人広告やハローワークでは求職者が来ない時、他社の状祝が見えないので、景気やタイミングのせいにできる。それが合説で、学生が座れず立って聞いている他社のブースなどを見てしまい、いろいろと考えざるを得なかった。

われわれ企業家の中には合説で同じような経験をし、会社を変えてきたという者が多い。この情けない合説は、私にとっても経営の考えを変えるきっかけとなった。

企業には、一二つの側面がある。一つ目は「科学性」。どんな商品・サービスを行っていくのか。二つ目は「人間性」。社員との関係はどのようなものか。三つ目は「社会性」。関係先を含め社会との関わりはどのように考えていくのかというものである。

当時の経営は、一つ目の「科学性」を重視し過ぎており、「地域」との関係性が強い残り二つの側面はおろそかになっていた。その後は「地域」での在り方も意識して、三つの側面を強化してきた。

「中小企業家同友会」では、良い会社、良い経営者を目指すだけでなく、企業として存在していくために、地域社会も含めた経営環境の充実も目指している。会社、経営者が良くなっても、関係先、そして地域に働く人がいなくなると、企業は回らなくなるからだ。

他県に比べて栃木の若者は、地元で就職するよりも都会で働きたいという人が多いと聞く。高校卒業後、修学のために離れることは仕方ないが、就職はぜひ県内を検討してもらいたい。

ところで県内の高校の評価にはいろいろあるが、人口減対策の観点から考えると、卒業生が県内で暮らしている人の多い学校が良い学校ではなかろうか?

「地域に働くところがない」というのであれば、高校のカリキュラムに「起業プログラム」を組み込んでみてはと思う。

県中小企業家同友会代表理事。
神奈川県出身。
民間企業に勤めた後、1985年に熱成形加工のシンデン(本社・小山市)に入社、97年から社長。「成長戦略の根本は人」とし全社員の年齢を構成表で管理。先輩から後輩への技術伝承に力を注ぐ。
小山高専地域連携協力会副会長。
法政大卒。茨城県古河市在住、55歳。

下野新聞「しもつけ随想」(平成27年3月18日)

下野新聞 2015年(平成27年) 3月18日(水曜日)

教えることは「共育」

八木 仁

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私が大学を卒業し、採用してくれた会社は工業資材を扱う商社だった。急成長中の会社で4月に入社すると、夏までに第二新卒、翌春には後輩ができるという状況だった。

そこで3年間お世話になり、父が創業した弊社に戻った。当時は自分より下の社員はわずかで、ちょうど10歳上が集中していて、自分との間に社員はいなかった。同業者も似たようなものだった。

私は団塊の世代より10歳下で14歳の時に石油ショック(1973年)を経験した。日本は高度成長期で、企業はそれまで継続レて新卒者を採用してきた。その後、石油ショックを機に今までより低成長となり、特に弊社のような製造業は採用を控えるようになった。石油ショックから10年、私たちが23~25歳の就職年代に入ったころから各企業が採用を再開した。弊社もその時期、新卒者の定期的な採用ができなかったため、年齢構成に空白が生まれた。

しかし、以前勤務した会社は市場が拡大したことから、採用を続けていた。入社して後輩ができたばかりでなく先輩も一つ上、二つ上、三つ上とそろっていた。両社を見て、とりわけ社員教育に違いを感じた。

10年間後輩ができなかった人は、苦労して身につけてきたことでさえも「当たり前のこと」と忘れてしまうようだ。教え始めて「なぜ理解できないのか?」となり、教えるのが面倒になり、最後は「見て覚えろ!」に落ち着く。新卒者に対して、先輩や会社の教え方が悪いとは考えられないので、この会社は自分には合わないと考え速攻、退社してしまう。

前の会社では指導の中心は入社2~5年の社員で自分たちが「分からなかったところ」「失敗した事例」から教えてくれた。大先輩から緊張して教わるのとは違い、気安かった。象徴的だったのは全社的に「教えると覚えるの限界」を意識していたことだろう。分からないことに対して、お客さまも含めて、周りに「聞く」ということを徹底的に仕込まれた。特に「聞けなかった」ということに対しては「なぜ聞かなかった」とよく叱られた。

このような経験から苦しい時もあったが、弊社はこれまで、毎年のように新卒者を採用してきた。そして前の会社で行われてきたように入社3、4年の社員が中心となり新人を指導してきた。

数年前、新入社員として「一から十まで」教わっていた社員が、自身も大変だったという気持ちが残っているので、根気強く新人を指導してくれる。その社員たちは後輩ができるたびに成長し、頼もしくなっていく。

上司や周りの社員も、新卒者がきちんと理解していたかを確認できる。新入社員が、よくつまずくところがあれば、全社的にどうすればよいかも検討できる。中小企業家同友会では「共育」「共に育つ」という言葉を使う。新卒者を採用していくことは、まさに「共育」のベースとなっている。

県中小企業家同友会代表理事。
神奈川県出身。
民間企業に勤めた後、1985年に熱成形加工のシンデン(本社・小山市)に入社、97年から社長。「成長戦略の根本は人」とし全社員の年齢を構成表で管理。先輩から後輩への技術伝承に力を注ぐ。
小山高専地域連携協力会副会長。
法政大卒。茨城県古河市在住、55歳。

下野新聞「しもつけ随想」(平成27年2月11日)

下野新聞 2015年(平成27年) 2月11日(水曜日)

私たちは「中継者」

八木 仁

しもつけ随想(2015年02月11日)

当社は創業48年目を迎える。父の後を継ぎ、私が社長となり、19年目になる。引き継いでしばらくして「会社を創った時、こんなに長く続くとは思わなかった」と父がつぶやいた。

当時、父が社長の時には出なかった問題が噴出し「まったく後のことを考えていない!」と少しイライラが募っていたが、父の言葉で「創業者」を陸上競技になぞらえ理解した。

父たち「創業者」は、100メートル走だと思いスタート。それが、200メートル、40Oメートル…、やがて長距離となり、競技場を出てマラソン。疲れてきて「ああ、これは駅伝だったのか」と悟る。そして、そこから誰にタスキを渡すのかを考え始めるのか…。

「中小企業家同友会」は、1957年に東京で誕生し、全国47都道府県、約4万4千人の会員を擁する経営者団体である。個人事業主を含む中小企業経営者とその後継者、それに準ずるもので構成されている。

58年前、なぜ「企業家」という名称を使って設立したのか、経緯はわからないが、私はこの言葉に引かれる。

「企業家」と「経営者」は同義語で「企業家」の「家」は「者」と同じ意味だ。しかし、武道家、茶道家などの「○○家」は、伝統技能などを継承する者を意味する。結婚式の看板「祝○○家」は、一族や家族全体を意味するが、夫婦・親子の綿々としたつながりも想像させる。さらに大きくなると「国家」だ。「家」という字は、背景に縦軸と横軸、つまり「広がり」と「歴史」を背負った字だと思う。

いろいろな方から「企業は永続するのが原則」と教えられてきた。構成する従業員と代表、さらに大半のところは仕事も入れ替わることにより、企業は存続する。

そのためにまず「企業家」は、その代表として、先代たちが創り上げ、守ってきたものを理解し、良いところは継承し、おかしなところは改革して、企業のかじ取りを行う。そして引き継ぎ時期に向かって、先代からのものと、自分が積み重ねてきたものを、次の世代に託していく。

ところで昨今、後継者がいないことによる廃業が問題となっている。私は、この「後継者」という言葉に違和感を覚える。「後」の字に「前編、後編」で、物語の完結を連想させられるからだ。

私は「後継者」ではなく、「中継者」の方が妥当だと考える。

後任を選び育て、次の「中継者」が、意気揚々とスタートできるよう準備することは、前の「中継者」の仕事である。

タスキを渡レたとき「後は俺に任せろ!」とスタート。その背中を「頼もしい!」「あいつならできる」と感じながら送り出すことは、私たち「中継者」の夢だ。

当社に、父の創るものにあこがれて入社してきた者がいる。私たちも、この父親のように、まずは「あこがれ」、「目標」とされる「中継者」でありたいと思う。

県中小企業家同友会代表理事。
神奈川県出身。
民間企業に勤めた後、1985年に熱成形加工のシンデン(本社・小山市)に入社、97年から社長。「成長戦略の根本は人」とし全社員の年齢を構成表で管理。先輩から後輩への技術伝承に力を注ぐ。
小山高専地域連携協力会副会長。
法政大卒。茨城県古河市在住、55歳。

栃木県中小企業家同友会

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