No.166_コラム

コラム

桶狭間の戦い
~尾張中心部と知多半島間の要害をめぐる攻防~

桶狭間古戦場公園『近世の曙』石碑

江戸時代に書かれた書から今川軍25,000人に対し、3,000人の織田軍が大勝利を収める。それは、まさに奇襲戦の代名詞だった。

しかし迂回奇襲戦には、かなりの無理があり成功率が低い。更に今川軍は鳴海城を真っ直ぐに攻めるのではなく東海道を外れ大高城に行くつもりであった。

反対に織田軍は中島砦から横に長く伸びた今川軍の中心部となる桶狭間を攻める事が出来た。

ちなみに、この戦いが情報戦を第一とする戦いへの、変革の第一歩となった。当時スッパラッパ、すなわち後の忍者スパイ。この戦いの第一功労者に、前線にての功労者よりも、No.1として忍者スパイを上げていた。

兆報は3つあった。

・一つ、として当日の義元は馬ではなく、輿に乗っている。

・二つ、として分派とし大高城に入る為に桶狭間あたりで昼食となるであろう。

・三つ、として実践行動が上げられる。

2つの適切な情報に基づいて、信長が可及的速やかな行動が取れた事がこの戦いの勝因であった。

企業にとっても同じだ。確実な情報に基づいて戦略を立て、戦術に落として即、実践行動をする事で現状を切り拓く道が生まれる。

[文](株)フカサワ
深澤雄一

栃木県中小企業家同友会

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